まず、のっけからタイトル『
Sと
Mについて|
再考』について補足
『
再考』という単語は、この場合極個人に起因するものであり、世間一般に提示するものではないこと
そして『寝たふり』カテゴリに入れた事についての補足は
この『寝たふり』カテゴリが何たるかを説明する事なしには述べる事はできない
眠りを分類する事で、私の中の複数の私をカテゴリ分類する中の、より世間一般向けの(それでも
このブログの主旨により、個人的言及に留めているのだが)私を『寝たふり』としている訳で
このブログのカテゴリ構成は、私個人のカテゴリ構成と似ていないでもなかったりするのである
既述の通り、タイトル『
Sと
Mについて|
再考』という事が、個人的に
再考しているだけであり、個人的思考の整理であるにも関わらず、人格的には『寝たふり』カテゴリに属するという事である
このクドい前置きに於いて、実はこれ以下の下らない単なる自己整理を読ませないためにふるいにかけている訳だが、それは実のところ
気遣いであったりもする訳だ
まぁこうやって
時間稼ぎをしていても仕方がないので本題に入るとする
まず、なぜそもそも
Sと
Mに大別するのかという事の、私なりの見解であるが
それは嗜好だけに留まらず、個々の根本
スタンスがまるで生物の性別である男と女で構成されているのと同じ事に、対人という事に関して凸と凹、もしくはプラスとマイナス、太陽と月、北(N)と南(
S)というようなものであると仮定した場合に、世間一般によく使用されている対人
スタンスを
Sと
Mに大別できるのではないかという事を前提にこれから中身に入って行くとします
(※性癖などの嗜好のみで使用されている割合の方が多かったりするような気もするが、性交も死生観を語る上で重要なエレメントである事も考慮するならば、一般に性癖について思い浮かべる事にずれを感じる事もなかったりするのである)
対人
スタンスとして人間を大別するならば
というところにまず
世間的に受け入れられやすい、もしくは所謂仕事ができる、生き残りやすいのはどちらかと
まず私が個人的に好ましいと思われるのは
Mであると思います
ここで、まずわたし自身は何者であるかと言うと、言わずもがな…
『いじわる』だけに
Sなのであるが
私自身が
Sであるが故に
Mの方が世間的には好ましい人物として映るに違いないと、思うのである
では
まず
Sはどういう
スタンスであるかという事を私なりに申しますと
『自分のスタイルを変えない』
というように『変わらない』事がまず基本であるのだ
勿論仕事のスキルであるとか、知識であるとか、そういった言動に於いての変化はあるのであるが
それすらも実は
Mに比べると劇的な変化は見られないのではないかと思われるのである
そのニュアンスの違いはどこにあるかと言うと
やはり対人という事がキーワードになってくるのであるが
人のために変わる、というような事を基本しない
Sが自己の向上心のみで変化をするといった場合、どれほどその変化を期待できるだろうか、という事なのだ
勿論自分に鞭打つエネルギーに於いても容赦のない
Sは自己を高めるための努力も並々ならぬものであると思うのだが
それは自己のある価値観に基づいてのみの判断でありその主軸が大したエネルギーを持ち合わせていない
Sである場合は全く期待できないという事なのである
(※勿論その価値観というのは相対的価値観であっても。そもそも真の自己判断というものはなくて、全て人間は諸事象を認識できるようになったあたりから全て経験と知識によって相対判断を行っていると思われるので)
そこに他者が存在している場合は少ないのでないかと思われるのである
力ない主軸に、他者の存在がなければ、それは姿勢だけが攻撃的であるだけで、向上の範囲も期待できないのだ
舵を取っているのはあくまで自分であり、意識下、潜在的に他者の存在があっても、あくまで決断を下している人格が存在するという事である
要するに決済を下す人格が存在するという時点で
Mと比較すると1テンポ遅れを取っているのではないかとも思われるし、その柔軟さや軽快なフットワークは
Mに劣るのではないか、と思われるのである
自己の能力向上や、ある物事を探求するという時にすら1テンポ遅れを取るならば
対人に於いては言うまでもなく、『変わらない』
スタンスはより強調され
対人関係に於いて、フットワークの重さを感じるところもあるし、フレキシブルに様々な他者の変化に対応する事もできなければ、複数の他者に応じる柔軟さなど持ち合わせていないのが基本的
Sの性格なのではないかと思うのだ
勿論営業職にも
Sは存在すると思うのだが、圧倒的に
Mの方が優秀であるし(自覚する事で更に業績を伸ばすようにも見えるのは気のせいだろうか。
Mに似つかわしくないナルシスト的要素を加えると計り知れない程の力を発揮するようにも見えるし。ナルシスト的要素と言うが勿論それは単に『そんな自分を認める・そして好きになる』という事なのだが)
営業職のようなそれこそ柔軟さを求められる職種に於いて
Sが存在しにくいのは当然と思われる程だ
Mの性格はここで既述する必要性を感じない程に
それは私の中で『常識人』であり『
気遣いの達人』であるという絶賛の下、私のような
S如きが(なんて
M的口調で言ってみたが)語りきれるか自身はないのだが
Mにとってそれは日常の事であり、必然であるが故にその特質を語る事は寧ろできないので、勿論
Mの他者である
Sの役割であるのだが
まず『常識人』である事は
ある一般的な
ガイドラインに自己を極限まで近づける事の柔軟さ、ひたむきさ、執念、そこまでして…!と思わせる程の奥ゆかしさを感じる事ができるだろう
そして
『
気遣いの達人』とは
正に言葉の通り、全ての行動は、他者のための行動であり、常に他者を中心として、自己が存在するという基本概念の下生きている彼らの当然の行いであり、他者の気分を害する事をしない理由として関心の有無に関係なく、基本行動として、自分がこうありたいという姿が『
気遣いの達人』であるようにすら見えるのである
なんと模範的な人達だろうと思わずにはおられない
気遣いを意識する
Sの
気遣いなど、
Mのそれと比べると
気遣いにすら値しないのだ
取って付けたような
Sの
気遣いの目的は対効果であり、その卑しさたるや欲がまし過ぎて
気遣いと呼ぶにはあまりにもレベルが低いのである
Mの
気遣いも勿論存続のための手段としての位置づけであるとは思うのだが、それはあまりにも日常化し過ぎていて、自身と同化してしまっているのだ
無意識と言っても過言ではない
Mは
世界平和の担い手なのだ
Mこそが
世界平和のキーワードであり
M養成に取り組む事が平和を現実的に獲得する具体的手段なのだ
言い過ぎた
悲しい事に、
Mは
S無しでは存在し得ないのであった
ここからは
Mのデメリットも少し紹介(紹介?何様?)する事になるだろう
Mの
時間の捉え方は
現在〜過去であるとする
Sの
時間の捉え方は
現在〜未来であるとする
これはニュアンス的にお分かりかと思うが
保守と攻撃という言葉に置換しても良いだろう
感情的ニュアンスも込めて、後ろ向き、前向きとしても悪くないかもしれない
残念な事に
Mは他者抜きでは存在し得ないのだ
そしてその他者は
Sである事の方が好ましい(本来の
M的要素を発揮させてくれて、尚且つ拡張さえもしてくれるからだ。
M同士でも平和にやっていけるのだがお互いを高める、とか
Mらしさを発揮する機会が減少するため)
それに対し
Sは単独でも生きて行く事は可能である(当然生物的にではなく精神的にという意味に於いて)
ただそれが世間一般にとってメリットがあるかというと必ずしもそうではないのだが
人間は共に生きる事で幸福を得る生き物であると思うし
相対判断で幸福を感じるならば、少なからず他者と共に生きているのであるが
Mと比較して、日常レベルで単独で生きて行く事を苦としない生き物であるという意味である
Sは
時間を考えた時にどちらを向いているかというと
現在〜未来という、無限の可能性と、無限の可能性を秘めた精神的エネルギーを持ち合わせた分類であり、しかし
世界平和の黒子として
Mのサポートをする存在でもあるのだ
行動はまさに、未来を向いているとは到底思えないのに、だ(ここが面白いところだとも思う)
このように
Sと
Mについて
再考した事で
私はある答えに到達した
Sである私を拡張するならば
いや、今それを
S的要素を拡張とは呼ばない
自己の向上を目的とした拡張をするならば
私は
M的行動を、ある人格を新規フォルダに作成して、新規登録するのはどうだろうと
思っているのである
M的行動、基本概念を学ぶ事で、何か今まで見えて来なかった何かが見えるのではないかと思うのだ
ここで分かるのが
やはり私の目的は、自己の拡張にある、という残念な事実である
前述した通り
Mの
気遣いを代表とする基本行動は、自己の存在のみであり
そこにいらぬ目的、邪念ともいえる不純なものなどないのだ
さすがに対極であるその人格を同じハードディスク(身体)に保存する事は致命的であるようにも思える
なぜならそのハードディスクは
Sであり、変化しない事が
Sの基本スタイルであるとするならば
フレキシブルにこれまで必要のなかった様々な機能を使用したり、新たな環境を作ったり、そもそものインターフェイスを変えるというような事までするのは
Sにとって
異常をきたすのではないかと思われるからだ
勿論そう思うのは
Sだからであるが
しかしながら社会と繋がって行く事を今後意識して生きて行くならば
M的要素はやはり私の中に必要な人格であると思うのである
なのでこれから私は
Mに傾倒していきます
私の想いを寄せる素敵な王子様は
Sだし
(本人に自覚があるか不明だが、基本は私と同じ
Sであるのではないか。勿論深層部分にそれと同じ振幅の
Mが存在するのだが←今回は大して必要ないと思われたので、
Sと
Mが同人物に同居するという事についての論説は特にしていない。)
というか
この考察を通して
彼が
Sなのだと思ったのだ
この考察の目的がまるでここ(王子を理解する事)にあったかのように
私の
Mへの変貌も、もう目前であり、完全なる
Mへのコンバートも不可能でないのかもしれない
なんて
それは言い過ぎた
Sは基本変わらないのだから
しかしながら
私は先日も
『言葉に支配されている』『理屈っぽい』などと言われてしまった
勿論『そこに常に理屈がある訳ではないので、理屈っぽい、は相応しくないけれど』とフォローはして頂いたのだが?『言葉で全てを掌握しようと思っているよね?』などと?
『言葉で表現できないものを認めないでしょ』などと言われもした
神の存在は信じないし、宗教などは哲学であるので、人間のある
ガイドラインを、物事を見る上で何を基準にするかという
ガイドラインであると思っているので霊的な存在を信じるかどうか、という点については、例えば『霊』であるとか『奇怪現象』であるとか『奇跡』というようなものをどう捉えるか、という設問に勝手に置換させて頂くと
何かがそこで起きたのならば、その事実は認めます
という姿勢です
それを私は、神様がどうの、とか、幽霊がどのとかっていう曖昧な表現でもって処理はしないし
また表現もしない、所謂味気のない人間、と映るだろう
しかしながら私は偶然とか必然とか、運命とか、ハプニング的な例えば出会いとかっていうのは無限の可能性と霊的なものを感じてはいる
そこが
恋なのだと思うし、人生の醍醐味であると思っているのだ
思考の中での中枢的役割を担っているのが、用意された宗教を代表とする
ガイドラインを使用していない、というだけで、勿論既述した通り、全ては他のものとの相対判断によって私の中にある中枢的役割である基本概念は存在しているのであるが
こういう細かい既述が『理屈っぽい』と思わせるのであろうけれども
相応しい表現があるならばなるべくそうしようと努める姿勢は
M的要素なのではないのか?
と今無理矢理自分の
M傾倒を主張しているのだが、如何か
とりとめもないので
このくらいにします
『
Sと
Mについて|再々考』がもしあるならば…
次は『
M的要素を拡張人格として持った
Sの観点』から、再び考えてみたいと思います
