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いじわる
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N/Aについて考察
好きな写真家ではなかったのだが
滅多にない機会だからという事だけで申し込んだあるプロジェクトのボランティア

撮影現場のスタッフとなる訳だが
私の持ち場は一番近くて、臨場感溢れるポジションだ
プロジェクトのスタッフには錚々たるメンバーが揃っていて
S/Nさん(男性のヌードで有名な)や、N/A氏のプロジェクト写真集のデザインを手がけられるデザイナーとその妻である女性が編集をされるという、とても仲の良い、息の揃った夫婦など(失礼ながら名前も知らないのだけれども)
向こうは10人くらいと、こっちはボランティアで10人くらいで
思うと結構な大人数だった訳だが
私にかかるこの負担は一体何…?と思うくらいに私は色んな役目を任されていたのだであった
しかしながらこのポジションは譲りたくはなかったので、今日も続けてこの持ち場で頑張った
次回月末にまた二日間あるのだが、研修を休んでこちら死守に努めようと思う(こんな時に自分の負けず嫌いというか根性の強さにはっと気付くのであった)

昨夜の飲み会であるが
私はおそらく自分から隣に座ったのだろう
きついポジションなのは分かっていたが、そこは行かずにどうするか、という本能だろうか
久しぶりに自分のそういう一面が出て来たので懐かしくも感じた
というのも日陰に隠れる事こそ○○、というように自己を矯正し続けてきた訳だから前に出て良い事というのを忘れていたのだ
勿論前に出るというのはその分の大きなリスクがあるのだが、私らしさ、というのはそういうとこで発揮されるというのを久しぶりに思い出して懐かしんだ、という話なのである

昨日今日と観察を続けて思った事を書こうと思う
というのも、この平日の二日間は有給を使わずに会社からの研修という形で参加しているので
報告書を書かなくてはならないのである
勿論そこはぐいぐい書かなくては、「妙な名目で研修扱いにしやがって」となるので
読み手の心を確実に掴むレポートにしなければならないのである
それは事実と表層部をただ単に報告するのではなく、いくら分からなくても私なりの見解を書かなくては勝てないのである
写真も沢山撮れたし、動画も撮れたので添付すれば尚良いだろうし
と、まぁこんな目的もあるので
覚えているうちに書いておこうという訳だ

まず要点から
・A氏は、言わずもがな基本的にクリエイティブな人間である
・A氏は、言わずもがな基本的にサディストである
・A氏は、言わずもがな基本的に孤独な人である
・A氏は、言わずもがな基本的にとても繊細な人である

この誰もが当然の如く分かっている事を、改めて振り返ってみようではないか

そもそも何を以て我々はそう言っていたのか?
誰もが言うからか?
 そうだろう
なんとなくそんな雰囲気だからか?
 そうだろう

では、私なりの言葉で説明してみてもいいだろうか

まず
「クリエイティブな人間である」
という事について

A氏との会話からこれらの感想を持ったのであるが(ちなみに私は先入観なしに会話ができる方だと自負している)
彼は、持っている知識や、経験、感想など、一回理性を経由したものから何かを感じたりであるとか、創造する、という事をしない人であると感じたのである
もう少し噛み砕くと、既にある知識や経験などから出て来る言葉に彼はおそらく歓びを感じないのだと感じた
つまらなく感じるのではないだろうか
それは知識経験だけに留まらず、思っている気持ち、というような内容のものでも、一度理性を経由して選ばれた言葉で語られた話には既に新鮮さを失っていると感じるのだ
彼は本当の生ものを愛する猫なのだ(お、なんて上手い比喩だ!※彼は猫好きなのだ)
では私はそれをどこで感じたのか、と具体的に例を述べてみよう
私が今何をしているか、とか、なぜそれをしているのか、とか、何をしに東京に遊びに行くのか、とか何でもいい、私自身の話をする時に、やはり私は言葉を選び、簡潔に、相手を選んで、かなり何度も理性を通過して濾過した言葉を吐くように心がけていたのだが(平たく言うと緊張してたって事)
A氏の反応が鈍いのだ
難しい言い回しや言葉なんかいちいちA氏の脳みその理の部分を経由させる事なんかしたら、A氏は何も創造しないのだ
たとえ稚拙な言葉であろうが、本能的に、その瞬間に飛び出した言葉、心から出て来た反応で彼は本物かそうでないかを見極めているのだ(その結果悲しい事に私は芸術よりも○○に惹き付けてしまったようなのだが)
しかしながら彼の凄いところは顔や雰囲気を見ただけで本性を見極める事ができる凄い人なのだが
会話に於いては、生の反応を欲しているのが分かりましたし、何が生の反応で、何が理性を経由しているのか、を瞬時に見極めている気がしました


次に
「サディストである」
という事について

○縛の写真なんかはよく目にすると思うのだが(あの単語でおそらく検索に上がっちまうんじゃないかと思って敢えて○縛とさせていただく)
まさにあの写真をみて、誰もがそう思うのであろうが
要素だけで言うと、嘘でもあれは可能なのである
A氏だって、相手が本当のマゾヒストでなくとも被写体として写している事もあると思うし
あの行為だけでは単にサディストと判定するのは易過ぎるのである
では私はどこでそう感じたのか、というと
さっきの話と少し被るのであるが
生の反応を期待している中にも、その会話の中の交渉(やりとり)で、常に優位に立っている、という点だ
子供の喧嘩で言うパンチをしている中でだんだんに強くなるガキはサディストである(笑)というような
ある力に対して、それよりも強い力で挑む、という態度である
飴と鞭という単純明快な話ではなく
心理的な次元の話である
飴も勿論鞭になり得る、これを基本構造としてそれでも尚流れを仕切るのがサディストである、と言っているのである(無論流されてみるのもサディストはやり通すだろう)
このようにサディストとマゾヒストは常に同一人物の中に介在するのであるが
この次元の話になると、会話でセックスができる人間(話題はビジネスでも芸術でも井戸端会議でも良い)でないとご理解頂けないかと思われるが
そういった複雑な快楽を感じる精神構造の上で判断して、彼はサディストである、という結論に達したのだ
サディストであるか、マゾヒストであるかというのは態度に過ぎない
愛はその態度を越えたところにあるのだ
私はAを愛おしく思った
実に不愉快な表現もするし、猫のひっかきのような事もする訳だ
ましてや世界レベルのセレブリティー(セレブというと日本人は金持ちと勘違いする人が多いが、いちいちここで説明するのも悲しい話であるが本来の意味はニュアンス的に有名人という意味合いが強い。金持ちというの意味は一切ないのだ)であるからその攻撃力も強い訳だが
それに刺激のある言葉も彼の手にかかれば物凄い攻撃力なのであるが
自分のやり方であれば一時的にでもなだめる事はできると感じたし、愛でる事もできると思った

では
「孤独な人」
というのは
正にそこで思ったのだが
誰も彼を包み込める人は名乗り出ていないのだ、と思ったのだ
とても近い存在だと思われる人物達も非常に距離があるのが分かったし
息のピッタリ合ったカメラ関係のスタッフに言葉を投げかけていたが、全く会話が成り立っていない
彼はエネルギーを放出するが、なかなか返って来ないのだ
彼がセレブリティーだから萎縮している、ではなく、それどころか、A氏に慣れているスタッフはその牽制の仕方すら完璧に会得していて、さらりとかわしてしまうのだ
要するに反応はしているのだが、無反応なのである
自身が放出したエネルギーが何らかの形で返ってくるのは、撮影をしている時だけなのではないか、と思ったのだ
だから彼はカメラを持ち続けるのではないかとすら思った
実は涙が出る程彼は孤独なのではないかと感じたのだ
勿論誰もが知っている亡くなった妻にあたる女性の代わりがいないのは当然なのだけれども
彼は彼自身になればなる程、孤独さを増すのだろうなと思った
それは、人間が生命とはなんたるかを知る事なのである
彼はそれを感じながら生きているのであろう

そして最後に
「繊細な人」
という事について
繊細でなければそもそも創造はできないのであるが
具体的に述べると
これも何度も言っているように、反応を見る、という点に於いて並々ならぬ感覚を持っているA氏というのは言い換えれば並々ならぬ繊細さを持ち合わせているという事と思われるのだ
さっきから当然の事を書いているのだが
なぜこんな事を書いているのかというと、私は彼を「感じた」から感じたままを書いているのである
アクションも豪快であるから、その豪快さ故に見逃すところも多々あるのであるが
見ている時は実に集中して見ている
そして空気を瞬時に察知してフレキシブルにその流れに対応する
サディストと云えどもそこのフットワークは実に軽快だ
明るくテンションの高い空気を基本的に心地よく感じるのであろうが(それは人のためではなく、自分の居心地のためだと感じる)
同時に優しさも感じたので(その優しさは主に関係者に対して向けられる事が多かったように感じたので)
意外に顔色を伺う一面も伺われた(やっぱり猫好きか)

まったくどうしようもない豪快な暴れん坊のやんちゃでわんぱくな悪戯猫であるが、繊細なところもちょっとは持っているにくめない人なのだろうな

態度としてはサディストであるが○縛なんかは別に所謂偏ったフェティッシュなのではなく、悪戯程度の話だと思う
じゃれ合いなのだと思う

愛情が深くて深くて
彼の愛情を充分に感じて、尚且つ同じくらいの愛情を注いでくれる人というのがなかなかいないだけなのではないかと思われた

人には許容範囲というものがある
底、ではなく(「底」となるとまた話題が別だから)
特に愛情というものには許容範囲があるように感じるのだ
どこまで受け入れる事ができるのか、というのが愛情の許容範囲だ
どれだけ表現するか、というのも大事だが、どれだけ受け入れられるか、というのも重要なのだ

逃げる人間がいる
逃げない人間がいる

要はそういう事だ

逃げないというのは決して勝負だけの話ではなく
愛情の深さの話でもあるのだ


勿論逃げたのにも関わらず、様子を見つつ再び、というのも往々にしてあるのであろうが
そういった交渉は頭を使ってはならないしね




古着の着物を着せてやる
メイクもつけるぞ、メイクは自分でするか?
イタリーとやるか、今度ローマでの個展の打ち合わせがあるんだ
どうだ!
という勢いであったが
その瞬間私は関心を示さなかった
ただぶち抜かれてあっけにとられただけであった
隠していたというか、全く表現していなかったにも関わらず全てお見通しだったのであるが
要はその会話中に事は成立しなかったのだ
私自身A氏の最初のひっかきを冷ややかな対応で処理してしまったのである
これが会話の中に快感があったか、どうか、という事なのだ

なかった

恋に落ちるというのはこういう事を言うのだと思う

私は初めて会った人に一目惚れのようなものをしたのだが
私は何もかもが気持ちよかったのだろうなと、今思い起こす
そこにある種の恥ずかしさという緊張感があったために一目惚れ現象を巻き起こしたのではないかと思われる
私の中では全く不自然な事ではなかったのだ
全く知らない人ではなかったし、寧ろ全てに於いて諒解の範囲内とすら
完全に私はリラックス状態であり
全く完全に委ねている状態だったのである
2度目に会った時はしかしながら神経がピリピリしていて(月経初日というのもかなり大きな要因であるのだが)何かに神経を尖らせていたのであるが…

まぁ自分の話はいい


会話を大切にする、というのをとても考えさせられた二日間であった
瞬間を大切にしなければならない
それこそが真実であり
恋なのである
それ即ち生命を感ずる瞬間なのである


第一投のモデルの方に話しかけられて
その会話の一端にあった一言
「もしかしたらこれが君の夏の一番の思い出になるかもしれないね」
というのはあながち嘘ではなさそうだ


これからの人生の起点としよう










と締めくくればレポートの印象は悪くないだろう(笑)
とりあえず簡単に

20070908000143.jpg

いじわる
寝たふり   0 0















 

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